10分でわかる日本のSM
はじめに
日本において、今では一般的な言葉となった「SM」
簡単に言えば、
Sは「いじめる」側で、Mは「いじめられる」側でしょうか。
SMがなぜ一般的な言葉として、今では万人に受入れらているのでしょう?
人の本質の中に、元々秘めらたものかも知れません。
例えば、
「いじめ」は誰かが教えた訳でもなく、集団生活では必然と発生します。
SMといじめは異なりますが、どちらも人の本質に刻まれたものなのかも知れません。
人は苦痛を嫌うのが一般的です。
「SMは痛いから嫌い」
そう言われる方を数多く見かけます。
Sを選ぶか?Mを選ぶか?
貴方はSかMか自由に選択することができ、また両者に特別な資格はいりません。
自身が宣言すれば、貴方はSにもMにもなることができます。
なぜSMが「変態」と言われるのか?
痛みや苦痛を自ら望み喜びを覚えるMは、人として普通ではありません。
「変態」と言われても仕方がないのかもしれません。
日本のSMにおいて、主役はMと言ってもいいでしょう。
なぜなら、現代における日本のSMの解釈は、
と言われています。
この言葉からも、Mの欲求を満たすためにSが存在するよう思えます。
今まで話したのは、SMの表面を捉えたに過ぎません。
例えば
「10分でわかるSM」を読むことで、SMの全体像と本質を知り、記事の理解が深まるものと考えています。
SMは日本で生まれた独自文化
日本のSMにおける「三種の神器」と言えば、
「鞭」「蝋燭」「浣腸」
昭和の時代に言われていたものです。
SMをイメージする場合、Sが三種の神器等を用い、Mを甚振るのが当時は一般的でした。
鞭の痛み、蝋燭の熱さ、浣腸の羞恥と排泄欲の我慢等、Mは苦痛を与えられることになります。
日本のSMには、海外と明確に異なるアイテムがこの他に存在します。
何だと思いますか?
それは縄による「緊縛」です。
現代の緊縛の先駆けとなったものの一つが「捕縄術」と言われています。
日本が江戸時代、捕縄術は法執行のための技術でした。
簡単に説明すれば、容疑者を素早く拘束する「早縄」、形式や儀式的に用いる「本縄」、拷問をするための「拷問縄」等、各地で様々な流派が伝承されていました。
江戸時代は鎖国の時代であり日本は孤立状態、緊縛が日本独自に発展していったのは必然でしょう。
SMにおける緊縛は、昭和の多くの緊縛師が捕縄術を参考にしながら独自に考案されたものであり、捕縄術の継承ではないとされています。
2020年 (令和2年)10月24日に京都大学で開催された「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」で、緊縛の捕縄術起源論が研究者から発表されると様々な批判が寄せられました。
「いたずらに緊縛を武士文化と結びつけ伝統化している」
「結果的に緊縛の歴史に関する偽史が世界に流布された」
NHKのニュースでも
「京都大 “縄で女性縛る動画” ネット公開を停止」
と緊縛研究が女性蔑視の観点からの批判も上がりました。
緊縛は捕縄術と大きく異なる点があります。
見た目では縄の掛け数が多ければ、素人目には厳しい縄に見えますが、実はMの負担を軽減する目的を果たしています。
緊縛は海外で「KINBAKU」や「SHIBARI」と呼ばれ、相撲や歌舞伎と同じように日本の伝統文化として捉えられています。
日本のSMは、責めと緊縛が融合していますが、海外では緊縛単体でアートとして存在しています。
このことからもSMは日本独自の文化であることが理解できます。
今では一般的な言葉となった「SM」
日本におけるSMとは、元々精神医学用語である「サディズム」及び「マゾヒズム」に由来しています。
ドイツの精神科医が医学書として、サディズムやマゾヒズムの異常性愛について紹介した著書『Psychopathia Sexualis (性に関する精神病理」』が日本に伝来し、翻訳本『色情狂編』が出版されたのは明治の頃でしたが、出版直後に明治政府によって発禁処分となりました。
大正デモクラシーという風潮の中、『Psychopathia sexualis』は『変態性欲心理』として再度日本へ紹介されます。
「サディズム」「マゾヒズム」という言葉は文化人たちのあいだに急速に普及したと言われています。
日本で大衆文化としての「SM」を広めたのはSM雑誌です。
1947年に創刊されたSM雑誌『奇譚クラブ』は有名ですが、一部のマニア向けの存在でした。
1960年代後半「SMマガジン」「SMセレクト」「SMプレイ」といった雑誌が次々と刊行され、一般の書店で手にすることができました。
1970年代になると日活ロマンポルノがSMシーンを盛り込んだ「映画」を上映します。
「花と蛇」などの作品に主演した谷ナオミが活躍した時代です。
1980年代になると、家庭に普及したVHSビデオによりSMが家庭でも視聴できる環境下となりました。
バブル期(1986年~1991年頃)には、店舗型のSMクラブが多数みられましたが、2005年の風適法改正により、プレイ用の設備・空間が設けられているSMクラブは事実上消滅し、無店舗型性風俗として今に至ります。
2000年代から映像記録媒体が、光ディスクであるDVDおよびBlu-ray Discに移行し、今ではスマホでもSMを目にすることができます。
「ドS」や「ドM」といった言葉も、若い世代で頻繁に使われる現在です。
現代における「ドM」は、鞭や蝋燭等といったハードな調教に耐える訳ではありません。
SMが大衆化するにあたり、プレイ内容が変遷しています。
ソフトSMを簡単に言えば「痛みを余り伴わないSMプレイ」と言えます。
例えば、目隠し・手錠・首輪・猿轡などのアイテムが使用され、言葉責め・スパンキング・放置プレイ・露出プレイ等を行います。
何よりも鞭や蝋燭等のアイテムは必需品ではなく日用品で代用できます。
ネクタイや手ぬぐいがあれば、目隠しや手首を拘束したり猿轡にもなります。
恋人カップルや夫婦等、セックスにソフトSMを取り入れることで、パートナーとのエッチに新しい刺激が加えられます。
例えば。電気をつけたままセックスをし「すごくよく見えるよ」とか「エッチな顔してるね」等の言葉責めを加えるだけで、今で言うドSな彼氏になるのかもしれません。
ソフトSMでは、痛みは伴ない変わりに、羞恥心を煽るプレイが多くなります。
「SMは痛いから嫌い」
このニーズに応えたのがソフトSMと言えます。
現代において更なる進化を遂げているのが、電マやバイブ等の玩具です。
昭和の時代では、人目につかない路地裏などにある「おとなのおもちゃ屋」でバイブを購入したものですが、今はネット通販等で誰でも簡単に手に入れることができます。
スマホで遠隔操作できるロータやバイブ、多種多様なアタッチメントを取り付け刺激を加える電マ、乳首を特化して責めるUFOやニップルドーム等、快楽アイテムが豊富に存在します。
SMは「痛い」から「気持ちいい」に変遷しているようにも思えます。
現代のSMにおいてSはMの奴隷かもしれません
SMの世界では、SかMか自由に選択できます。
性別との関係もなく、特に資格もなく自身が宣言すればSにもMにもなれます。
ただ、SMはSとMが存在しなければ成立せず、パートナーが必要となります。
何よりも大切なのがパートナーとの信頼関係であり合意が必要となります。
セックスもSMも相手との合意がなければ犯罪になります。
SはMとの合意が無ければSMすることに至りません。
主導権を握るのはMと言えます。
Mは、ご主人様や女王様を選ぶことができます。
「SMは痛いから嫌い」
これはMの立場の意見であり、Sはこのニーズに叶うよう変遷したよう思われます。
SMクラブでは、お金を支払えばSMプレイが可能であり、S客であればM譲との合意は必要ないよう思われるかも知れません。
SMクラブでは、プレイ時間や責めのアイテムの制約、プレイ内容の制約がM譲ごとに決められており、客はそれらの制約に合意しSMプレイを楽しみます。
M譲は嫌いなプレイはしなくてもよく、好きなプレイを選択することができます。
客は制約を守らなければ、店への出入り禁止等の処分を受け、拘束されたM譲に本番行為を行えば刑法177条の「強制性交等罪」に該当し、逮捕される可能性もあります。
合意なきSMは犯罪となり、Sは加害者、Mは被害者になります。
犯罪になるもならないもM次第と言えるでしょう。
プレイだけを見れば、責めるSが優位に思われるかもしれませんが、Mにとってみれば、Sは自身のM願望を満たしてくれる存在に過ぎません。
現代においてSMは、
「サービスのS、満足のM」と言われています。
現代のSMにおいて、SはMの奴隷なのかもしれません。
Mは、なぜ苦痛を自ら望み受け入れるのか①
人は痛み等の苦痛を嫌うものです。
しかしながらMは、Sからの苦痛を言わば自ら望み受入れます。
SMが変態的な行為とされるのは、人として変だから変態なのかもしれません。
Mが、奴隷や家畜又はそれ以下の存在といった立場をとるのは、人とは違う変態なのですから必然なことでしょう。
Mはなぜ苦痛を自ら望み受け入れるのでしょうか?
一般に言われているのは、苦痛が限界まで迫ると「脳内麻薬」と呼ばれる物質が、脳細胞から分泌されると言われています。
マラソンランナーが、ランニング中に言わば陶酔状態になる「ランナーズ・ハイ」に似ているかもしれません。
人が死に近づくと、寿命が尽きようとしている細胞を守ろうと、体のあらゆる器官が懸命に生きる努力をします。
特に脳の働きは重要で、「脳内麻薬」と呼ばれる物質を分泌し、寿命をのばそうと働きます。
併せて「幸せホルモン」と呼ばれるセロトニンが、感情をコントロールし精神を安定させる方向に働き、幸福感をもたらすと言われています。
苦痛の果てにある、これらの言わば快楽を望んでいるのかもしれません。
苦痛を脳で快楽に変換したと言えますが、SM(調教)でここまで至るのは希な事でしょう。
多くのMは、この状況の手前におり「痛いものは痛い」「苦しいものは苦しい」と言います。
ただ、頭の中が苦痛で埋め尽くされると、脳が思考を失った感覚になり「頭の中が真白(真黒)になる」と多くのMが語ります。
Mによっては、ホワイトアウトとかブラックアウトと表現します。
その状況は、現実世界で生きる苦痛を忘却させ、ひと時の安息感を得ると言うMもいます。
現実世界の生きる苦痛とは、仕事の悩みや人間関係等といった多くが精神的な苦痛を意味しています。
普段、その事ばかり考えて生きているのでしょう。
現実世界から逃れる手段として、SMを活用しているようにも思えます。
「痛みは裏切らない」というMの方もいました。
痛みを感じることは生きている証であり、自身の存在を確認しているようにも思われます。
Mの腕にはリストカットの自傷行為が見られました。
現実世界で人に裏切られ、疑心暗鬼となり信じる者がいないのかもしれません。
Mの中には、現実世界に疲れ心を患っている方を多く見かけます。
SMによって健康な身心を取戻す方もおり、言わばSMを卒業される方もいます。
「毒は毒をもって制す」
SMはある意味「毒」であり、「良薬」にもなるのかもしれません。
Mは、なぜ苦痛を自ら望み受け入れるのか②
Sの命令に従い実行するのがMの役割と言えます。
調教では、Mが役割を果たすとご褒美と称しMの望む行為をすることがあります。
「ご主人様に認めて貰いたい」
Mには、承認欲求が見受けられます。
一般に調教は、階段を昇るようにハードになっていきます。
過去にはできなかったことが、今ではあたり前にできるようになっていきます。
M自身もその成長を自覚しており、今の自身を認めて貰うことに喜びを感じるのでしょう。
Sに認めて貰うことによって、自身の存在意義を見出しているようにも思えます。
今の時代、現実世界で承認欲求を満たすのは難しいのかも知れません。
上には上があり、どこまで行ってもキリがないよう思えます。
自分の容姿やスタイル等にコンプレックスを一番持っている職業が、ファッションモデルと言われています。
一般から見れば羨むような容姿であっても、業界内で認められなければコンプレックスを抱くのは必然なのかも知れません。
仕事、特に企業のサラリーマンにおいても認められるのは難しいものです。
仕事が認められれば、昇進し役職が上がっていきます。
主任になれば係長、係長になれば課長、課長になれば部長・・・・
社長になればいいかと言えば、株主等のステークホルダーに認められなければ、最悪退任することになります。
ただ、モデルであればファンに認められ、サラリーマンであればお客様等エンドユーザーに認められることが大切だと思われます。
現実世界では、多くの者が承認欲求に飢えていることでしょう。
Mは、なぜ苦痛を自ら望み受け入れるのか③
サウナに入り、言わば暑さの苦痛から解放された後の水風呂やビールは格別なものです。
電車に乗り排泄をもようした時、車内で排泄欲を我慢し、駅のトイレで排泄できれば安堵と排泄欲からの解放で至福の時を迎えます。
苦痛からの解放は、苦痛を我慢するからこそ味わえるものです。
緊縛師によるプロの緊縛を受けたMは、何か包まれているような、誰かに抱かれているような心地よさを覚え、「縄酔い」という言葉も存在します。
緊縛は自由度の高い拘束であり、緊縛師の縛りは様々な姿勢を余儀なくされ、その不自然な姿勢からの解放は、例えば姿勢が決められた磔等の拘束よりも格別感があるものと言われます。
公開調教で浣腸を施された場合は、電車で排泄を我慢した場合と違い、個室のトイレではなく、人前で排泄することになります。
排泄欲が高まる中、人前で排泄する羞恥心と戦うことになります。
しかしながら、SとMの立場で羞恥心は異なります。
女王様の中にはM男に対しご褒美として黄金(うんち)を与えることがあります。
特に浣腸することなく自然便での提供となりますが、M男に観られての排便に羞恥心は殆どないと多くの女王様が語ります。
逆にM女の場合は、何度経験しても羞恥心は持ち続けている場合が多く、排泄時の音や臭い等が体調により異なる為、その心配が羞恥に繋がっているよう思えます。
「恥ずかしい」とは、人間特有の感情です。
同じ行為であっても立場や環境によって、恥ずかしかったり、恥ずかしくなかったりします。
羞恥心に関しては、別途詳しく説明したく思います。
Mは、なぜ苦痛を自ら望み受け入れるのか?
主な理由を分類し、大まかに説明してきましたが、
「単に痛みや苦痛が好き」とか「女囚に憧れて」とか「縛られると愛を感じる」とか・・・・
その理由は実に様々です。
SMの限界
SMにも限界があります。
Mが望む責めをSに伝えても、Sが躊躇する場合や責めが成立しない場合があります。
過去に壮絶なDVを経験し、今ではそれが旦那の愛だったと知るM女が、その時と同じように暴力を振るって欲しいという願望があった場合、SはMの思い描く暴力的な行為を実現できない場合があります。
Sがサービスできず、Mは満足することができない状況です。
SMは信頼と合意によって成立すると言いましたが、それだけでは成立しない場合とも言えます。
Sの実力不足かも知れませんが、Mの願望が強すぎるとも言えます。
逆にSがMの願望を過度に受取り、Mにとって一線を超える責めを講ずれば、Sの信頼は確実に失われることでしょう。
SとMとの関係性は、ガラス細工のように繊細で壊れやすいものです。
一度壊れると関係性の修復は、ほぼ不可能と思われます。
SMの関係性を維持するのは難しく、儚い関係性である事を理解すべきでしょう。
SMを成立させる上で最低限必要なものが、信頼と合意なのでしょう。
関係性を長く維持する要件としては、価値観や一緒にいて楽しい、容姿が好みである、尊敬できる等、結婚と同様な資質が求められることでしょう。
Mの品格
プライベート調教では、初めにご主人様に挨拶をするケースが見られます。
「服を脱ぎなさい」
予め指輪やネックレス等のアクセサリーは外し、派手なネール等は控えます。
Mは脱ぎやすい衣服で、脱衣に手間の掛からないよう配慮する必要があります。
全裸に土下座での挨拶は、Mの服従する覚悟が伺えます。
「本日もご調教宜しくお願い致します」
声のトーンや言葉の速さ等も、注意すべきでしょう。
ここまでの振る舞いでMの品格が顕著に見受けられます。
衣服の脱ぎ方では、ご主人様の貴重な時間を費やしてはいけないと、素早く脱ぐのは当然ですが、時間を優先し脱ぎ散らかしては品がありません。
脱いだ衣服は、素早くたたみ重ねて一纏めにし、最後に脱いだ下着は、衣服の中に入れ隠すのがいいでしょう。
土下座の姿勢では、背筋を伸ばし正面を見据え、背筋を伸ばした状態で腰を折り、床に額がつくよう尻を少し浮かすことで見栄えある挨拶になります。
一連の動作が自然にできるまでには、少なからず経験が要ります。
挨拶は、Sの支配的な欲求を高める儀式であり、何よりも重視する主人も少なくありません。
調教を重ね、全裸での挨拶があたり前になったとしても、羞恥のしぐさを必要と考えるM女もいます。
下着を脱いだ時、手で胸や股間を隠すしぐさを演出するM女もいます。
S心をくすぐるのもMの役割と言えるでしょう。
セーフワードはSM間での信頼の証
今ではSMと言えばソフトSMが主流ですが、痛みや苦痛を求めるMが存在します。
現代ではハードSMと呼ばれるかもしれませんが、ここでは単にSMとします。
「サービスのS、満足のM」という言葉は、この世界では余り通用しません。
逆にMはSを満足させなければなりません。
Sを満足させるには、いかなる命令にも従い、あらゆる責めに耐え、心から奉仕しなければなりません。
SMは日本独自の文化と紹介しましたが、海外で言うBDSMと類似します。
BDSMは「SLAVE(奴隷)」&「MASTER(主人)」の意味合いが強く、日本のSMと立場が真逆になります。
カナダ人の留学生で英会話教師のJは、日本でSかMか問われ、奴隷のSと答えると鞭を持たされたと言います。
日本のSMにおいても、ご主人様と奴隷という立場でプレイするケースはよく見られます。
希ですが奴隷契約書を交わしプレイをすることもあります。
奴隷契約書は、「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は無効とする(民法90条)」に抵触し法的には無効な契約ですが、Mに自身の立場を明文化し読ませることで理解を深める効果があります。
奴隷契約書では、人権を剥奪され家畜同等又はそれ以下の立場として扱われることが記され、如何なる命令にも従い、理由を問わず従えない場合は懲罰が課され、肉体の全てを主人に奉げるといった内容が一般的です。
ソフトSMでの「プレイ」は、SMでは「調教」と呼ぶのが一般的でしょうか。
調教には、1対1の「プライベート調教」と観客や傍観者のいる前で調教を行う「公開調教」があります。
SMショーは公開調教に分類されますが、一般に公開されるSMショーには制約があり、全裸等性器を晒すと公然猥褻に該当するので配慮が必要となります。
その為、公開調教はマニアが集い秘密裏に行われるのが一般的です。
摘発を逃れるために、カメラをまわしAV撮影を装うこともあると聞きます。
ソフトSMのプレイでは、限界まで責めることは希ですが、調教ではMの限界まで、場合によっては限界を超える責めが行われることがあります。
その為、調教では「セーフワード」と呼ばれる合図をSM間で決める必要があります。
セーフワードは何でも構いませんが、調教中には言わない動物や食べ物などが一般的でしょう。
猿轡等で言葉が発せない場合もあるので、首を4回左右に振る等、言葉以外の動作も決めておく必要があります。
Mがセーフワードを発した場合は、いかなる場合においてもSは責めを中断しなければなりません。
なぜなら、セーフワードはSM間での信頼の証だからです。
SはMがセーフワードを言ったら褒めてあげる等、限界を超える無理をさせない関係作りも大切になります。
SMに愛は必要か?
SMにおけるMの立場は少なからず理解できたかと思われます。
MはSを満足させなければなりません。
Sを満足させるには、いかなる命令にも従い、あらゆる責めに耐え、心から奉仕しなければなりません。
本来Mには、NGプレイ等存在しません。
なぜなら、奴隷的な立場のMは人権を剥奪され家畜以下の存在だからです。
サド・マゾの定義で言えば、
サドは、苦痛を他人に与えることで喜びまたは性的満足を得る。
マゾは、相手から精神的、肉体的苦痛を与えられることによって性的満足を得る異常性欲。
SMクラブでは、プレイ時間やアイテムの制約、プレイ内容の制約がM譲ごとに決められており、客はそれらの制約に合意しSMプレイを楽しみます。
例えば、M男性の場合はプレイ前に問診票を記入したり、女王様と事前に対話しプレイ内容が決められます。
M男は自身のして欲しいプレイをして貰い、その対価としてお金を支払います。
S側のプレイはサービスに過ぎず、性的な満足は満たされるか否かは関係ありません。
時間やアイテムの制約、NGプレイ等、本来のSMには必要のないものです。
プライベート調教では、SMクラブのような制約はないと言っていいでしょう。
Sが満足するまで調教は続けられ、苦痛を与えるアイテムは自由であり、調教がMの資質により不成立の場合は、それ相当の懲罰を与えればいいのです。
SMは信頼と合意で成立するものです。
SはMの責めへの耐性を理解しており、プレイの得意・不得意を把握しています。
Sが自分本位な責めをすれば、信頼は失われ次回の合意は得られないかもしれません。
SMにおける制約は、本来は上で説明したものしかありません。
もし仮にMがSに対し強い愛情を抱いていたら、その制約は皆無となるかもしれません。
SMに愛は必要か?
愛がなくてもSMは成立しますが、MがSに愛情があれば制約は皆無となり、より深いSMが実現でき関係性も深まることでしょう。
まとめ~10分でわかるSMで伝えたかったこと
・SMは人の組織活動の最小単位と考えることができる
・SMは、性別等に関係なく自身が宣言すれば、自由にSでもMでもなることができる
・SMを成立させるには信頼と合意が最低限必要
・SMを成立させる実質的な主導権を握るのはMにある
・痛みを嫌うMに合わせ日本のSMは変遷し現代に至っている